活躍する同窓生 第2回 加賀真理子さん
加賀真理子さん
加賀真理子さんのプロフィール
1970年 | 神戸海星女子学院大学英文科卒業 第3回生 |
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1976年 | イリノイ州立大学言語学部の大学院課程入学 修士課程修了 |
1978年 | Second Language Acquisition and Teaching(第2言語学習・教授法)博士課程に移り |
1981~1984年 | ミドリベリー大学夏期日本語学校にて4年生と1年生を担当 |
1986年 | ミネソタ州 Carleton College で教鞭をとる |
1987年 | 博士号取得 論文はDictation as measure of Japanese Proficiency |
1991年 | アジア言語・文学学部のtenured(終身雇用)を得て教授として籍を置く |
加賀真理子さん インタビュー
海星卒業後の思わぬ展開
1970年に大学卒業後、千里で行われた世界万国博覧会で住友童話館でパビリオンホステスとして社会に出ての初仕事をし、自分の世界の狭さを実感しました。博覧会終了後体調を崩して暫くは何もせずに家におりましたが、その後ドミ二力様から教授の一人がご主人のお仕事の関係で海外に行かれることになったので、英語を教えに来てもらえないかという依頼を受け、私に何が出来るのかわからないまま承諾してしまったのが、教育の世界への第一歩となりました。学生時代に一ヶ月ほどアメリ力の英語研修に行っただけで生の英語を知らない人間がよくぞ英語を教える(それも大学生に)仕事を引き受けたことと思います。でも教えることの面白さはその時に感じたのでしょう。
当時同じく母校で教鞭を執っておられた一学年上の桜井敏子さんの刺激を受けて、桜井さんが南イリノイ大学に留学された翌年の1976年の8月に私は同じイリノイ州、シャンペン・アーバナにあるイリノイ州立大学言語学部の大学院課程に入りました。言語学が何であるか本当に基礎知識もあるかないかで、よくも無謀なことをしたものだと今考えるとゾッとします。
アメリ力で日本語と向き合う私 ~博士号を目指す!~
大学の図書館は午前12時に閉まるのですが、殆ど毎日閉館までいたので、そのうち顔見知りになった図書館員に「ここに住んでいるみたいね。」と言われました。2年で修士が終わり、日本に帰ろうか残ろうかと思っている時に現在プリンストン大学で日本語の言語学を教えておられる牧野成一教授に日本語のアシスタントの仕事をしませんかとお誘いを受けて、言語学からSecond Language Acquisition and Teaching(第2言語学習・教授法とでも訳すんでしょうか)という新しい博士課程に移って博士号を取ることにしました。
随分長い間博士課程にいることになるんですが、その間に日本語を教える面白さ、難しさ、喜びを味わうことが出来ました。何の準備もなく、海星時代の国語の授業もよく勉強しなかった私ですから、最初の年はなんのトレー二ングもなく上級日本語を任されて、真っ青でした。相手は大学院のそして頭脳明晰な人たちばかりでしたから、穴があったら入りたい、針の山の上に座っている心境でした。翌年は日本語の初級、中級をもう2人の助手の人たちと教えました。
教授への道 ~ミドルベリー大学での貴重な経験~
9週間で1年間に学ぶことをたっぷり教え、学生は24時間英語を話さない、話しているのが見つかれば退校という誓約書にサインさせられるような所ですから、まあご想像以上にいろいろな問題が先生間、先生と学生の間、諸々の所で出てきます。でも自分で言うのは変ですけど、随分いろいろな意味で成長させてもらいました。今ミネソタにある力ールトン大学という小さなリベラルアーツの大学で教えていられるのも、終身雇用されて教授になれたのもミドルベリーの経験のお陰です。でも4度も夏にミドルベリーに行ったお陰で、博士号の勉強が遅れに遅れてしまい、指導教授にミドルベリーより博士号を終わるように言われてしまいました。
本来はふた夏だけの予定だったので、私も今度お誘いを受けたら、お断りするつもりだったので、ひたすら勉強にだけ集中しました。勿論生活費は大変なことになりましたけれど。
友人3人が借りている家の2階と屋根裏が空いたということと、沖縄から研究にいらっしゃるという日本人の教授が1年住める所を捜してほしいと依頼を受けていたので、安い所が必要なもうひとりの友人とその2階と屋根裏を借りることにしました。ここがイリノイ大学生活最後の思い出の所です。
ハウスメイトとの楽しい思い出 ・・・同居人は・・・男性!
一緒に借りた友人は学生仲間の男性、沖縄からの教授も男性、二人の男性との生活でしたが、それぞれ個人の部屋があり、台所とバス・トイレが共有。最初から男女平等に台所、トイレ掃除を受け持つこと、食事は自分の物だけを作ることと決めて、沖縄からの教授も快く了解してくださったので、実に楽しい1年でした。
時間のある週末は夏ともなると1階のバルコ二ーにアイスクリーム・メーカーを持ち出して手作りのアイスクリームを楽しみ、誰かがシカゴに行くというとお金を出し合って手巻き寿司の材料となる魚を買って帰り、残っている人間が寿司ご飯とみそ汁を準備して待っているという次第でした。待ちに待ったお寿司の美味しかったこと。
皆週日は自分の博士論文、授業、助手の仕事、生活費はそれでも大変だったので、私はランゲージラボでも深夜までアルバイト、他の人たちもそれぞれのアルバイトで座る時間もなかったので、週末の集いは最高の楽しみでした。
ついに博士号取得!
私の博士論文は Dictation as a measure of Japanese Proficiency というタイトルで、いかにして日本語の能力を自然の環境で経済的(経費も時間の無駄もなく)に正確に検定できるかという研究でした。今でも○×形式の検定試験が多いですが、dictationという一見不自然な環境が実際には心理的にも物理的にも自然の言語活動が行われている時の状況と似ているので、dictationという最高でも25分ほどの作業で学習者の能力が判定できることが分かりました。
面白い課題がたくさんあり、本来はその研究を続けていなければならないのですが、力ールトンという小さい大学では時間的な束縛などで不可能で、今は力ールトンの日本語教育に専念しています。カールトンで教え始めて一年目の1987年の5月についに博士号を獲得しました。家族はいませんでしたが、同じ家に住んでいた日本語の助手仲間、友人が来てくれて、ほかの博士号取得者と交じって一人一人拍手の中大学長と握手をかわした時の感激は、と言いたいのですが、興奮していたからでしょうね。ニタニタ笑っていたのは覚えているのですが、後は夢のなか、夢のなかでした。
我が町ノースフィールドと力ールトン大学
カールトン大学はミネソタ州のノースフィールドというミネアポリスセント・ポール(Mall of Americaというアメリ力最大の屋根付きのショッピングセンターがある所と言えば分かるかな)から車で50分ほど南の人口17000人強の町にあります。リベラルアーツの私立の小さい大学ですが、今年は全米第8位の優秀な大学にランキングされました。自慢するべきじゃないんでしょうが、高校時代学年のトップ2パーセントぐらいの成績の学生が殆どで教えていても気が張りつめます。この町は私が来た1986年はまだ人口12000人でした。有色人種が殆どいない所で、初めて仕事のための面接に来た時、先生方とのタ食をした町はずれのレストランで、私を見た白人の5才ぐらいの男の子が珍しいからかジーッと私を見続けていました。仕事が決まってイリノイから車を運転して来たのですが、町の中心に立って町を眺めて、改めて白人ばかりの町に少々戸惑いました。イリノイ州立大学もジ力ゴの町も有色人種が多かったですからね。でも「ミネソタ・ナイス」という言葉があるのですが、スーパーに行っても、どこに行っても、”Hi!”の挨拶で始まります。勿論、これが人種差別かと考えることもたまにはありますが、兎に角平和な所です。
私の自慢の教え子達
ここに来て初めて教えた学生の一人が卒業後、工ール大学時代に早稲田で研究し、今はウィスコンシン大学の日本文学の助教授になりました。ほかにも目下博士課程にいる卒業生や、日本語を仕事で使っている卒業生や、日本で仕事をしている卒業生が多くいます。
1年間だけでもかなり話せるようになる学生もたくさんいますし、2年ともなると私と話す時は日本語だけと言う学生もいます。結婚もせずアメリ力で生活を築いていることは自分にいろいろなことを勉強する機会が与えられたのだと、心から喜んでいます。今考えると面白いなあと思うんですが、私がアメリ力で勉強することに決めたと言ったら、どなたか全く記憶にないんですが、「加賀さん、結婚しないの?」という質問を受けました。
その当時はまだ やはり女性にとって結婚が人生のゴールということだったのでしょうね。今でもそうでしょうか?私には子供はいませんが、私のような存在もある学生には役に立ったのかも、親に相談できない学生、親と問題がある、といった学生の話を聞いてあげたり、アドバイスをあげたりしています。
我が人生から学んだこと
卒業後も何十年も付き合っている人も数人いて、自分の子供のように思います。まあ、この34年近いアメリカ生活で本当にいろいろなことが学べました。一番よく学べたのは自分のこと。勿論海星で学んだことが基礎になっているのですが、イリノイに行って初めて自分がいかに小さい人間であったかを学びました。本当に小さい。その一つは「~たらよかった/~すればよかった」というのは言わないこと。やらなかったんだから、諦めて、前進です。くよくよいつまでも同じことを考えて時間を無駄にするのは工ネルギーの無駄使いです。そして、自分だけが正しいと思わずに、人の立場に立って考える余裕を持つ努力。アメリカ人はどうだ、こうだ、日本人だから、こうだ、ああだ、といういわゆるステレオタイプのイメージは捨てたほうがいいようです。人は人、どこに行ってもいい人はいいですよね。年上、年下、携わっている仕事に関係なく、尊敬の念と、感謝の念と、謙虚さを常に考えて人と付き合い、これからもまだまだ日本語教育に頑張りたいと思っています。
編集後記
昨年11月のある日、柳井会長と私たちウェブ担当は、クラスメイトで今はアメリカのカールトン大学教授の加賀真理子さんと、卒業以来40年振りに再会しました。
お会いしたとたんに話がはずみ、あっという間に学生時代に戻りました。加賀さんの飾らないお人柄は、距離や年月の隔たりを経た今も、全く変わっていらっしゃいませんでした。
海星卒業後の、私たちとは異なる世界の興味深いお話を、ゆっくり伺うことができました。学問を追及し、博士号を取得され、多くの教え子を持つ加賀さんは本当に輝いていらっしゃいました。
今回ご登場頂いた加賀さんの充実した人生を、会員の皆様も感じていただけたことと思います。