活躍する同窓生 第6回 谷田和子さん
活躍する同窓生 谷田和子さんです
神戸海星女子学院大学英文科8回生
谷田和子さんのプロフィール
1975年 | 神戸海星女子学院大学英文学科卒業 日本航空株式会社 大阪空港支店旅客部 入社 |
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1978年 | 結婚を機に退職 専業主婦 |
1981年 | インター大阪(通訳科)入学 |
1983年 | フリー通訳 |
1986年 | バンドー化学株式会社国際部入社 通訳、翻訳、一般事務、社内広報誌編集等を担当 |
2012年 | 同社、退社 |
2013年 | 辻調理師専門学校 辻日本料理マスターカレッジ(エコール 辻 大阪)入学 |
「活躍する同窓生ですって!?」
ウェブサイト担当の方からご依頼があった時、真っ先に出たのは、私でいいの??という言葉でした。学業成績は並みの下、素行はおっちょこちょいでそそっかしいし、性格はいたってノウテンキ。数え切れない失敗談はあれど、胸を張って人様にご披露できるような輝かしい経歴なんて全く持ち合わせていないことは、自分が一番よくわかっています。
「それそれ、その失敗談をお願いします。」
あっそういうことなんだ。若い頃、あなたはタンポポみたい。踏まれてもふまれてもまた頭をもたげてくる、といわれたことがありましたが、自分の失敗を面白おかしく人にさらけ出して話しているうちに、気分転換してしまってケロッとしてしまう私。なんでこんな性格になっちゃったのかしら?
「性格形成 母親の影響」
私ごとで恐縮ですが、私の母親は幼くして実母と死別し継母に育てられ、父と結婚してからはお姑さんにビシバシしごかれ、頼る父はいわゆるビジネス戦士世代の人でたまにフワフワと「女遊び」も混じる夫。
何かと気苦労が多い環境下で母は自分に与えられた試練を実にくよくよと悩んでいました。
そしてその悩みを乗り切る適応能力が弱かった彼女は、私が小学校のころにノイローゼで入退院を繰り返しておりました。そんな母に子供の頃から「成るようになる、気にしてもしゃーないやん」といい続けていましたが、それが私の性格形成に大きく影響していたのではないかと思います。母を叱咤激励(?)しながら実は自分で自分に「 成るようになる!」と言い聞かせそれを実践し続け、現在に至りこんなノウテンキが身についてしまったのかもしれません。だから、私は悩まないのが上手ですよ。明日の私は今日の私よりも輝いている!って呪文のように自分に言い聞かせるんです。
だって自分で自分をヨイショしてあげないと誰がしてくれますか?誰にも褒めてもらえない自分がかわいそうでしょ?
「日本航空勤務時代」
第一次石油ショック直前の年でぎりぎりセーフで憧れの航空業界に就職。
会社に入ってわかったのですが仕事は分単位での体力勝負でした。例えば飛行機の搭乗名簿の作成。今なら一瞬のうちにパソコンでデータ送信、完了。ところが、35年前はファックスすらなくテレックス時代。
150余名の乗客のフルネームをキーボードでタイプすると、それが幅2センチくらいの紙テープに穴があいてアウトプットされます。そして出来上がったテープを機械に読み取らせると、カタカタと穴を読み取って到着地の受信機に送信する仕組みです。正確かどうかは別にしてタイプはブラインドタッチでスピードだけは早くなりました。
ところが紙テープの打ち始めと終了部分に約束どおりのキーをタイプしないと、エラーになって最初から打ち直しです。何度エラーになったことか。そのたびにコワーイ先輩に泣きついて助けてもらいました。恐いけど仕方ないんです。飛行機が到着するまでに乗客名簿を送らなければ目的地の入国管理事務所は乗客を飛行機から出してくれません。そんなことになったら大ごとですから。コワーイ先輩も渋々、愚かな後輩の面倒を見てくれました。
その経験のおかげでしょうか、ものおじせずに誰とでも話ができるようになりました。厚顔無恥を誇りに思ってもいいかなと。
「通訳時代」
縁あって一歳年下の夫といわゆる「金のワラジ」結婚(結婚については後で申し上げるつもりですが・・・)して、当時はほとんどの女性がそうであったように「はなまる退社」で三食昼寝付きの専業主婦になりました。
プラプラした結果ブクブクしてきて毎日が日曜日で頭はカラッポ。子供が出来なかったのでママ友会話から得られる情報もなく社会から取り残される妻を危惧して、夫は「何か始めたら?ん?通訳?いいんじゃない?英文科でしょ?」そんなやこんなでインター大阪(現インターグループ)に通い始めました。
CNNニュースをヘッドセットで聞いて、マイクを通して即日本語訳をしゃべる同時通訳です。
聞きながら話すなんて聖徳太子のカミワザです。英語が聞き取れないのも英語に訳せないのも語彙不足。1にも2にも 語彙 ゴイ vocabulary です。
そこでも成績は並みの下ですが、「継続は力なり」を信じる小心者ですから途中放棄はせずになんとか卒業。
夢は「通訳谷田和子」という名刺を作ること。その夢は結構簡単に手に入れることができました。
人材派遣会社に通訳で登録して初仕事です。ある建築会社の依頼で技術会議の通訳。技術のことはチンプンカンプンですが、建築会社からは技術の言葉でわからなければ英語のカタカナで大丈夫と言ってくれました。
たとえばCaliper(ノギス:厚みを測る工具)はキャリパーといえば通じます。
ただし英語で話す人の冗談や独り言を一字一句、すべて翻訳してほしいとの依頼。
海外で生活したことのない私は日常生活で普通に話されている英語が分かりません。「なんてこったい。おっと。参ったなあ。えっと。ちぇっ。」等々。
技術英語はチンプンカンプン、英語で話す人の冗談も独り言も訳せない。
そんな通訳要るもんか!一日でクビでした。その後、何度も冷や汗かいて時には人知れず泣き、自信喪失、試行錯誤を繰り返して人並みとはいえませんが何とか通訳でお金を頂戴できるようになりました。
「結婚生活」
いよいよ結婚編です。失敗談といっても今年の3月に結婚35年を、無事というか何とかやり過ごし、ひとつ屋根に暮らす夫がおります。
先にも申し上げましたが「金のわらじ」で選んでいただいたお陰で私が先に定年退職。天下晴れての三食昼寝付モードであります。でも誰でもそうでしょうが、波乱万丈とは言わないまでも私の35年間も多少の「山あり谷あり」。それこそ「●婚」の危機なんてこともございました。原因?それはもうごく一般的な「小指」で指し示すあれですよ。泣きわめいたり、怒ったり。家出もしましたね。夫も私も。仕事をしていたのでホテルから仕事に通いましたが、資金的に長くは続かず断念。
でも、あるとき気づいたんです。1日24時間。睡眠時間と通勤時間を含めた仕事時間(当時は多忙を極めていたので12時間超仕事することもありました)を引くと6時間で、諸々の雑用時間を差し引くと純粋に自分のために使える時間はわずか4時間弱。その貴重な自分の時間を泣きわめいたり怒ったりして使ってしまうといったい私は何のために生きているのだろうか、と。
泣きわめいて事態が好転することもないし、気持ちが軽くなるどころかますます嫌な気分になってきて、最初は親身に愚痴を聞いてくれた友人たちも口には出しませんが「うんざり感」が漂いはじめる始末です。
そこで気持ちを切り替え、貴重な自分の時間は楽しいことをしよう。美味しいものを食べよう。楽しいことだけを考えて「幸せになるんだ! 」と自分に気合を入れたりして。
その頃が結婚生活に限らずすべてにおいて人生の転機になったようです。結果は「私が悪うございました」と夫。嫁の勝利でした。
「転機そして現在に至る」
「明日の私は今日の私よりも輝いている!」「絶対に幸せになるんだ!」と自分に言い聞かせてみた時に転機が訪れました。
現実にさしたる変化があるわけではないのですが、そう自分に言い聞かせると不思議とクヨクヨしなくなって気持ちがさっぱりするのです。自分の置かれている状況よりも自分がどんなふうに生きたいのか、60歳以降の自分の人生をどう過ごしたいのかについて結構真面目に考え続けました。
辿り着いた結論は「衣食住」の「食」でした。美味しいものを食べると何とも云えない幸せな気持ちになりますよね?26年間仕事をしてその合間にちょこちょこやっていた掃除・洗濯・料理の主婦業。どれもが中途半端ですが特に料理にはずっと劣等感を持っています。その劣等感と苦手意識を克服するために一念発起して料理の専門学校に一年間通う決心をしました。
決して安くない学費を60歳で投資して何か得るものがあるのか?と問い詰められても的確な回答はできませんが、取り敢えずやってみたい一心で4月から入学します。
「60の手習い」ではやや遅すぎるかもしれませんが人生80年といわれる昨今、70歳までには下積みを経て何らかのカタチになっているでしょう・・・多分。
編集後記
記谷田さんは謙遜されて、各時代の失敗談を面白おかしく書いてくださっていますが、学生時代はクラスの頼れる存在でした。通訳時代、バンドー化学(株)国際部時代でも後輩を指導する立場まで頑張っていらしたことをよく知っています。料理の腕も磨かれてますます活躍される谷田さんの今後を楽しみにしています。